この時間は番組内容を変更してお送りいたします。
いろいろ段階をすっ飛ばして結論から言いますと、
「チームみらいに足りないもの、それは『儀式』だ!」
となります。
えーと、どこから話しましょうか。
実のところ議会というのは、
「集団的意思決定の現場」であると同時に、
「『そこで示された意思決定は権力を持つ』と他人に納得させるための儀式の現場」
でもあるんですよね。
臨時国会本会議初体験後の安野議員の感想 が批難されているようなのですが……
確かに、議会の機能を集団的意思決定に限って考えるならば、日本全国から選ばれた精鋭248人が遠路はるばる東京都千代田区永田町までやってきて、5日滞在して、帰っていくというのはとても非効率的に思えます。人によっては本業もあるし、地元の有権者たちともお関わりしていかなければならないのに、なんでこんなことに時間をとられなきゃいけないんだ。Zoomか何かでリモート会議にすれば十分だろう? 国会議員の交通費が高い高いと国民の不満の焦点にもなってしまっている。その交通費で何人の国民が救えることか! まして現在、安野議員の味方は参議院には他にひとりもいない。法案を提出することもできず、できるのは賛成か反対の投票だけ。24万人の国民が成果を待っているというのに!
……と、いう苛立ちがあったのかもしれない、と、動画を見ていて思いました。
(私が見立てる限りでの)安野議員の苛立ちにも、存在意義はあります。これは彼やチームみらいに反発している方々にぜひ考えていただきたいことなのですが、
・これだけリモート会議が普及した現在にあって、議員の身柄の移動と会期中の拘束にかかるコストを軽減する試みがなされていない。
・そのコストが軽減できていれば国民が受け取る果実を増やせたはずである。また、議員が地元の支持者と交流し、地方の意見を国政に集約するための時間も捻出できたはずである。
・議院内で相当数(20以上など)の議席を持つ政党でなければ発言力を与えられず、少数意見の尊重が実現されていない。また、少数政党の議員に投票した国民の負託に応えられていない。
という問題を突きつけられていることには意識的になったほうがいいように思います。
一方で、安野議員の感想に対して、「議会への軽視だ!」と苛立つ方々もおられるわけです。ただ、先ほど私が見立てた存在意義に照らせば、「集団的意思決定の現場」としての議会は必ずしも軽視されていないと考えることはできます。
とはいえ、「儀式の現場」としての議会はおそらく軽視されている。というか、そもそも、そうしたものが存在しているという認識を持っている人は多くないでしょう。(もしかしたら私だけかもしれません)
「祭」「祀」はいずれも「まつり」、「政」は「まつりごと」と読みます。
昔の時代、これらは不可分でした。為政者が行う政治とは神に祈りを捧げることでもありました。歴史家たちは「祭政一致」という言葉を使います。その後の世界では、宗教と政治を切り離そうとする試みがなされました。現在の日本国憲法第20条後段には、
いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
とあり、政教分離が図られています。
しかし、同じく日本国憲法の第7条はこう語ります。(強調引用者)
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
(後略)
(内閣の助言と承認を要するとはいえ)国会を召集するのは天皇です。
天皇とは祈りである、と説明される ことがあります。現在の上皇さまが退位なさる前のおことば には、
私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。
とあります(強調引用者)
以上のことを組み合わせれば、安野議員を始めとする国会議員は、国民の安寧と幸せのための天皇陛下の祈りのもとに永田町に召集されていることになります。
国会にはそうした性格もあります。
「儀式の現場」としての議会に注目した場合、安野議員はそれに唾を吐いてしまっている状態であるとも言えます。そして「儀式の現場」としての議会の根底にある存在は天皇です。
安野議員とチームみらいが、これから多くの人に影響力を及ぼしていくためには、この「儀式」の力を避けて通ることはできないだろうと、私は考えています。
そしておそらくですが、「儀式」の力を上手に使えている先輩が国会にいます。そうです、参政党です。
参政党の影響力の、いい部分を学んでもらいたい、とチームみらいに対して私は思います。