前の記事が「遺伝子による不平等を認識すべきか」という話でしたが、この記事では「それを是正すべきなのか」を考えます。



ひとつ前の記事では、遺伝子によって生まれながらに能力に差があること、それを特定の集団の優劣に結びつける優生学は科学的にも誤った差別思想であり、一方で遺伝子による差が存在しないように扱うことも不正確で不平等を放置する思想であることを述べました。

それでは遺伝子の不平等は是正したほうがいいのでしょうか?

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ある人がお金持ちの家に生まれて会社を継いでお金を稼いでいる場合に、再分配をした方がいいと考える人は多いです。一方で「お金を稼ぐ能力を持って生まれた人はその能力を持って生まれなかった人に再分配をすべきか」という質問には、否定的な人が多くなります。
これは本の中でも心理学の実験で触れられていますし、同じような結果はこれまで多くの実験で確かめられてきました。
両者ともに生まれ持った時点での違いが格差を生んでいるにもかかわらず、環境的な格差は是正されるべきと考え、遺伝的な格差は是正しなくてよいという感覚が一般的であり、これは私自身にもあると感じています。
優れた能力を持つ人はより多くの報酬を得るべきであるという考え方はメリトクラシーと呼ばれますが、この考え方にはどれくらい正当性があるでしょうか。

このメリトクラシーの否定こそ、この本の真の価値であると私は感じました。
かなり個人的な思想も入った話なので、こんな考え方もあるというひとつの視点として読んでもらえればと思います。
ここからその点について本の内容をまとめます。

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能力に応じて高い報酬を得ることが正当かと問われると、多くの人は正当だと答えると思います。逆に言えば、能力がない人は報酬が低くても仕方がないと思われているということです。能力がない人が能力ある人より評価されることがないという点で、メリトクラシーは平等で公平です。
これには「その人の高い能力はその人がコストを払って達成した成果であり、コストにふさわしい正当な対価を受け取るに値する」という常識的な感覚が関係しているでしょう。
しかし、遺伝学の観点で考えるとその人の高い能力はある2種類の偶然の産物でしかないという事実が、能力がある人が高く扱われるメリトクラシーの根幹であるコストに対する対価という感覚を揺るがします。

まず一つ目の偶然は、その人が生まれた時に得ている物がくじ引きの結果でしかないことです。
どんなに両親が優秀でも、両親から受け継ぐ遺伝子の組み合わせがハマらなければ、子供の遺伝子のポリジェニックスコアは低くなります。たまたま高いポリジェニックスコアを得た場合でも、教育が受けられないような劣悪な環境ではその能力が開花することなく終わります。
本人の高い能力とは、生まれた時の遺伝子のくじ引きの結果と、生まれ落ちた環境で決まっていると言えるのです。
この本人に関わる偶然がまず一つ目の要素としてあります。

そして二つ目の偶然が、能力にマッチした社会に生まれたかどうかというくじ引きです。
高い知能のポリジェニックスコアをもって生まれたとしても、戦が全てのスパルタのような社会に生まれていれば体力が伴わなければ全く評価されません。
反対に、軽度知的障害にあたる人でも体力がありさえすれば、農業や牧畜がメインの社会では立派に働けていたということもあり得ます。
自分が持って生まれた能力が生かせる社会だったかどうかも、本人の能力と同じくらいに重要なファクターなのです。

総合すると、今高い能力によって成功して利益を享受している人たちとは、たまたま遺伝的にいいくじを引くことができ、たまたまその能力を伸ばすことができる環境に生まれ、たまたまその能力が社会で評価されるものだったという、スタートラインに立った時点で究極のラッキーマンだったということが遺伝学の観点から浮き彫りになるのです。もちろん、これは成功者が努力していないという意味ではありません。努力できる性質や、努力が報われる場所に立てたことまで含めて、偶然の上にあるという話です。

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ここで問題になってくるのが、ヒトは公平さを重んじる性質があるということです。
これは本の中でも触れられていますしほかの心理学の実験でも確かめられていますが、完全な偶然だけで誰かが不当に扱われることはあってはならないことと受け止められ、また過剰な成果は自分だけが受け取るのではなく(程度の差はあれ)分配する傾向があることも分かっています。
逆の結果として、ヒトは偶然自分だけが損をすることに敏感です。つまり過剰な成果を自分のものだけにしておくのは周囲から後ろ指をさされるリスクがあるのです。

一方で、他人がコストを払って得たものに対しては正当性があると認めることもヒトの特性です。
なので、メリトクラシーが受け入れられるのは、高い能力が当人の努力の成果と認識されるからと言えます。

しかし遺伝学は、高い能力は偶然の産物に過ぎないことを指摘します。
努力には意味がないわけではなく、敬意は払われるべきです。けれど、努力によって埋められない格差が偶然与えられていたことを直視した時、最終的な能力で評価することを本当に公平だと感じられるかが問題です。
ちょっとの努力で伸びる人や、そもそも努力しようとどれくらい思うかさえ偶然に支配された遺伝子が影響するとき、ある人が社長になってある人がホームレスになることを正当と言えるほどの当人の介入があったでしょうか。
例え能力が低く生まれてもお金持ちの家庭では私立への進学や塾や様々なサポートを受けてそれなりな生活ができるようになるのに対し、貧乏な家庭に生まれてサポートも受けられずにずっと貧乏から抜け出せないことが不公平だと感じるのであれば、遺伝子による能力の格差も不公平であると感じるはずである、ここまでが本の主張になります。

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「公平であることは倫理的に考えても大事だし、ヒトは公平であることを好むのだから公平を目指すべき」ということは論理的に正しいのですが、個人的にこれについてもう一段考えてみます。

そもそも全体のテーマである遺伝子の不平等性って、こうしてきっちり証明するまでもなくうっすらみんな分かっていた、ということはないでしょうか。今の社会で成功するには基本的に勉強がある程度はできることが前提ですが、努力でなんとかなるとされている勉強にも向き不向きは絶対に存在して、成績が悪いことが本人の責任とばかりは言い切れないと感じることはあったと思います。

それでも「遺伝子で生じる格差まで考慮することは難しい」と感じてしまうのは、自分が偶然に恵まれていて、恵まれた分を与えなければ後ろ指をさされる立場である、と指摘されることへの恐怖があるのではと考えています。
「遺伝子で生じる格差まで考慮することは難しい」ということにしておいてくれないと、多くの人にとって今の自分が偶然によって過剰に多くのものを受け取っていることになってしまいます。社会から孤立することは避けなければいけないと本能に刻まれているヒトにとって、社会から非難されるかもしれない指摘を許容できないのは自然なことです。

その本能からやってくる恐怖に打ち勝って指摘に向き合わなければならないのではないかと私が考えている理由は、現代の情報化社会が都合のいい勘違いをしたままでいさせてくれないからになります。
国内の問題も海外の問題も、リアルタイムで手元のスマホから流れ込んできます。そこには、どう考えても偶然によって自分より恵まれなかった人が可視化されます。
自分にはどうしようもないと言い訳するのも難しいです。少なくとも、募金やデモなどができてしまうことが分かっているからです。
指摘に向き合わないようにしようとすると、ずっと自分をだまし続けなければいけなくなります。能力が高い人は社会を発展させているのだから取り分が多いとか、弱いものが淘汰されるのは自然の摂理であるとか、募金は中抜きされているとかデモは意味がないとか、自分を勘違いさせてくれるあらゆる方法で心のバランスを保とうとします。私にはその生き方は幸福度が下がっているように見えます。

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倫理的に正しいからやらなくてはならないのではなく、幸福度を高めるにはやったほうがいいのではないか、というのが私の考えになり、前の記事の「この思想(Woke)の実践でしか人類が幸せになる方法はないのではないか」というところに繋がってきます。
ここで重要なのは、これは「正義やきれいごとのために恵まれた人は我慢すべき」という話ではないということです。

自分たちが「真実に目覚めたもの:Wokeである」なんて名乗って、同じ考えでない人より優れているかのように偉そうにするのは論外ですが、うっすらと自分は偶然に恵まれた側かもしれないと気づきながら、そんな気付きはなかったかのように眠り続けようとするのも無理があります。

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ヒトの幸福度は周囲の幸福度に影響されます。
隣人が虐待する子供の泣き声が聞こえる状況で、幸せに自分の子育てができるようにはヒトはできていません。
そして情報化社会には、子供の泣き声が聞こえないところまで引っ越すという選択肢はありません。

ならばいっそ、自分が苦しくない程度に与える側に回ったほうが結果的に幸福度が高くなるのではないか、これが私の考える「遺伝子の格差を是正したほうがいい理由」になります。
隣人が子供を虐待していた時、もし問題がある家庭を支援するNPOに寄付をしていて、そのNPOが隣人を訪問して虐待を解決しようとしてくれていたとしたら、自分には関係のない話だと必死に耳をふさいでいた時より幸福度の落ち込みが多少はましになりそう、みたいな話です。

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ここでいう「与える」は、自分を犠牲にして全ての格差の凸凹がまったいらになるまで差し出すという意味ではありません。
「与える」をどうやればいいのかという点については、仏教の托鉢とお布施の考え方が参考になります。
すごくざっくり丸めると「無くなったところで自分が苦しくないものは余っているものだから、自分が嫌だな苦しいなと思うレベルを見極めて、余っているものを各々が分け与えればいい」という考え方です。

また、是正のやり方にも工夫できるところはあるように感じます。
高校3年生の100m走で学業の成績からスクールカーストまで全てが決まるという学校があった時に「足が遅い子は20m前からスタートできる」みたいな是正の仕方はかなりもめるでしょう。
一方で、そもそも100m走でスクールカーストまで決まるのはやめようとか、上がるのは体育の成績くらいにしよう、みたいな是正の仕方をすれば、足が遅い子は足が遅いままでも、それによって受ける不利益を軽減することができます。
勉強ができない子がいい大学に入れる枠を作らなくても、勉強ができないだけであらゆる不利益が発生しないようにすれば教育ポリジェニックスコアの是正になります。是正とは、必ずしも順位を入れ替えることではなく、ひとつの能力だけで人生全体が決まりすぎる構造を弱めることでも達成できるのです。

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このように、遺伝子のようなどうしようもないと思われているところまで含めて、色々な格差を解消しようという社会を作ろうとすることが、幸福度を上げて楽に生きる一番の近道なのではないかということが、この本から私が受け取ったメッセージになります。