以前に、遺伝子の不平等を格差の認識に組み込むことについて記事を書きました。



今回は、遺伝子と環境の不平等を犯罪と刑罰に持ち込んだ場合に「死刑は廃止したほうがいいのではないか、そのコストを社会が負担することに正当性もあるのではないか」という結論に至ったことを書きたいと思います。
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犯罪を犯さなかった人は、犯罪を犯した人より善い人なのか

環境について考えるとき例えば、貧しい家庭に育った人が金銭目的の犯罪を犯したとします。もしその人が裕福な家庭に生まれていたら、その犯罪を犯さなかったかもしれませんし、逆に現在犯罪を犯していない人も、全く違う家庭に生まれ、違う人間関係の中で育ち、生活に困窮していたら犯罪を犯していたかもしれません。

同じような考察が、遺伝子を原因にしても成り立ちます。
怒りを抑えることが比較的容易な人もいれば、衝動性が強かったり、中長期的な展望が苦手だったりと、様々な複合要因が犯罪を犯しにくい人と犯しやすい人を作り出します。これは潜在的な犯罪者とそうでない人がいるという二元論ではなく、誰もが犯罪を犯す可能性がある潜在的な犯罪者である中で、犯罪に至る確率を動かす無数の要素の一部に、本人の意思とは別次元の生物学的性質も含まれているという事実です。

それを踏まえると、
「私が犯罪を犯していないのは正しく生きているからではなく、たまたま犯罪を犯しにくい性質を持っていてたまたま犯罪を犯す可能性のあるシーンに出くわさなかっただけではないか」
という疑問が出てきます。

犯罪を犯さずに済んでいる人が裕福な家に生まれたことも、暴力を受けずに育ったことも、怒りを抑えやすい性格だったことも、本人が選べるものではありません。
それは逆もまた同じことであり、本人がどうしようもないことが原因で犯罪という選択肢が常に高い確率で生活の中に発生する人に対して、たまたま犯罪に縁がなかった人が道徳や善で全てを理解しようとするのは誠実ではないように思います。

ここから私が主張したいのは「犯罪を犯した本人に責任がないということではなく、本人の意思とは関係のない要素を踏まえることで、どのような責任を負わせるべきかが変わってくるのではないか」という話です。

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責任としての罪の重さは刑罰にどう反映されるか

犯罪には裁判を通じて刑罰が科され、これが責任に応じて犯罪者に社会が与える代償と言えます。

この刑罰の重さを示す量刑について、特に刑務所への収監について、大きく分ければ以下のような意味が込められていると言われています。
・犯罪者を隔離して更生させること。
・犯罪を行えば罰を受けるという警告によって犯罪を抑止すること。
・犯罪には相応の罰があったと社会に示すこと。
・犯罪行為に相応の苦痛や不利益を科すという応報。

これらすべての要素を量刑という一つの尺度で表しています。

ここで遺伝的、環境的不平等という視点を持ち込むと、量刑を決める際の要素は隔離と更生だけでよいのではないかと思われるのです。
注釈しておきたいのは、本人の責任が減免されるから刑罰を軽くした方がいいという話ではなく「量刑は隔離と更生に必要な分によってのみ判断すべきではないか」という点です。そしてこの隔離と更生はかなり険しくて重い罰であることが過小評価されているようにも感じます。
次の段以降でその理由について考えていきます。

目的は被害者の救済か、犯罪者を苦しませることか

この議論をすると最も難しいのが被害者への応報です。
結論から述べると、重大な犯罪の被害者や遺族が犯罪者を憎むことは自然ですが、被害者を救済することと、犯罪者を苦しませることは、本来別々に考えるべきではないでしょうか。

犯罪による被害は、残念ながら発生した時点でなかったことにはできません。犯人をどれだけ苦しめようと、失ったものとの天秤が釣り合う日は来ないでしょう。
だから被害者救済とは、被害が発生した地点を出発点として、そこからその人の人生をどう支え、再び幸福を積み上げられるようにするかに焦点を当てるべきです。

金銭的補償、生活支援、心理的支援、社会による承認、加害者による責任の引き受け。
こちらに社会資源を使うことが、本来の被害者救済ではないでしょうか。

もちろん、それでも「犯人には苦しんでほしい」と願う被害者はいるでしょうし、その感情は否定しません。
ただその感情を満たすにはどの程度苦しめればいいのかは個人差が大きく量刑で表現できるものではありませんし、国家がその感情を代理して人間を苦しませる道理にもならないと感じます。

まして社会の第三者の「犯罪者は苦しむべき」と言う感情には、さらに慎重であるべきだと思います。

重い刑罰は、本当に犯罪を防ぐのか

次に刑罰の持つ犯罪抑止効果について考えてみます。

刑罰には当然ですが抑止効果があります。
しかし、「刑罰があること」と「刑罰を重くすれば抑止効果が高まる」が同じかはよく考える必要があります。

犯罪抑止の研究では、刑罰の重さよりも「捕まる可能性」の方が重要であるという結果が比較的一貫しています。米国National Institute of Justiceも、厳罰化より摘発の確実性の方が強い抑止になると整理しています。死刑についても、米国National Research Councilは既存研究について、死刑が殺人を減らすのか増やすのか、あるいは影響しないのかを判断する材料として使うべきではないと結論しています。

そもそも、計画的な犯罪を除いて、
「これは懲役数年だからやるが、無期懲役だからこれはやめよう」
という計算がどの程度行われているのかは疑問です。

そして「刑を軽いコストと考えて犯罪に及んだ」という要素自体が、社会からの隔離と更生の必要性として量刑に反映されるため、結局はそういう打算的な犯罪ほど重い刑が科されるようになります。

また別の角度で、社会復帰後も前科によって就職や人間関係に大きな制約を受ける現在の社会では、「有罪になること」そのものが巨大な不利益としてすでに機能しています。

犯罪抑止のためには刑罰制度は必要だとしても、刑罰を重くすることで得られる追加的な抑止効果は思われているほど大きくないのかもしれず、まして死刑が存在することによる抑止効果にははっきりとした結論は出ていません。

社会は犯罪をどう受け止めるべきか

最後に、社会に対する正義を示す意味での量刑について考えてみます。
犯罪が行われると社会に対する信頼が毀損されるので、これを修復する必要があるというのが刑法における量刑の社会的意義として解説されています。

しかし遺伝的、環境的不平等という視点で考えたときに、社会は外から突然現れた「悪」によって傷つけられた無垢な被害者ではなく、犯罪を生みうる環境的なばらつきを内部に抱えた当事者としての立場が見えてきます。

遺伝、家庭環境、貧困、教育、人間関係、偶然の出来事、本人の判断。
無数の条件が積み重なった結果、社会の中から犯罪が発生したと考えると、犯罪を引き起こす原因となる再現性のある社会構造が指摘できます。

そうなると犯罪に対して社会が取るべき態度は「犯罪者がきちんと罰を受けてよかった」というものではなく、「被害者を救済し、原因を調べ、同じことが起きないようにし、危険が残るなら隔離する」ということになるのではないでしょうか。

「この犯罪者にはどれほど苦しんでもらうべきか」
ではなく、
「何が重なってこの犯罪が起きたのか」
「どうすれば次の犯罪を減らせるのか」
「この人が再び社会で生活できる状態になるには何が必要なのか」

社会がこのように考えたとき、量刑に社会正義という要素は入らないのではと思えてきます。

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遺伝的・環境的不平等と共生するための隔離と更生

私たちの社会に遺伝的・環境的不平等が発生することは避けられません。
その上で「たまたま犯罪を犯さないで済んでいる側の人に、犯罪者を裁く正当性があるのか」という問いは先に書きました。

これに対する私の回答としては、「たまたま犯罪を犯さないで済んでいる側の人にできるのは遺伝的・環境的不平等を乗り越える手助けをすること、つまり隔離と更生」になります。

量刑は「どのくらいあれば再び社会の中で共生できるような状態になれるか」を基準に考えられるべきで、たとえその危険性を本人が自ら選んだわけではなくとも、他者に重大な危害を加える危険性が高い人を自由な社会から隔離することは仕方がないと受け止めるしかありません。

ただここでも目的は、「悪いことをしたから苦しませる」ではなく、「社会の中で安全に共生できないため隔離する」だと認識すべきです。

この二つは外から見ると同じ刑務所への収監でも、考え方としてはかなり違います。
社会で自由に暮らし、好きな場所へ行き、家族や友人と自由に会い、新しい人間関係を作る。社会性のある動物である人間が他者との関わりの大部分を制限される時点で、刑罰としての重大さは十分にあると言えるのではないでしょうか。
それ以上に苦痛を加える必要があるのかは、別に考えなければなりません。

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隔離と更生と相容れない死刑

ここまでの考え方に立つと、死刑はかなり特殊な刑罰になります。
更生する可能性を国家がゼロにする刑だからです。
社会に戻すことが危険なら戻さなければいいですし、生涯社会で安全に共生できないのであれば、生涯拘禁するという選択肢もあります。
しかし死刑はさらに一歩進んで、その人間の存在そのものを社会から消すので、そこには社会防衛以上の意味が必要になります。

多くの場合、それは、
「これほどのことをした人間は、生きていてはいけない」
という判断になります。

しかし、遺伝的・環境的不平等を前提とし、犯罪が本人の意思以外に社会的要因など複雑な要素から生まれると理解すると、遺伝的・環境的不平等を吸収しきれず犯罪を発生させてしまった社会がこの判断を行うことの正当性は疑わしいと言わざるを得ないように感じます。

遺伝的不平等から考える死刑廃止のコスト論

当然、全ての犯罪者が更生できるとは限りませんし、更生したかどうかを社会が十分な確率で判断できない場合もあり、その場合は収監を続けることになります。

この時、「なぜ更生するかどうかも分からない犯罪者を、税金で一生養わなければならないのか」という疑問が出てきます。

これについて、遺伝的・環境的不平等の観点から一つの意見を提示したいと思います。

人類は遺伝的にランダムな能力を持って生まれてくるようにできています。
結果として、ものすごく頭の良い人がいます。
運動能力に恵まれた人もいます。
芸術的才能を持った人もいます。
病気になりやすい人もいます。
衝動性が高い人もいます。
社会生活への適応が非常に難しい人もいます。

私たちは、この分布の「プラス側」から生まれる利益を社会全体で享受しています。
天才的な科学者が発見した技術は、その遺伝子を持っていない人の生活にも役立てられます。
天才的な音楽家の作品を、その才能を持たない人も楽しむことができます。
優れた技術者や起業家が作った社会インフラの利益を、多くの人が受け取っています。

そうであるならば、人間という種が持っている多様性の分布から生じる「マイナス側」のコストだけを、
「これは本人の責任なので本人に処理してもらいます」
と言うのは、バランスが取れていないのではないでしょうか。

天才が生まれることを社会全体の利益として享受するのであれば、同じ不均一な人間集団から生じる不適応のコストもある程度社会全体で引き受けるのが、社会として真摯な態度であるように思います。

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遺伝的・環境的不平等を刑罰に持ち込むことで、犯罪を犯した人が無罪になるという話ではありません。
被害を受けた人が我慢しろという話でもありません。

人間は、自分では選べない不平等な条件を持って生まれてくるという事実を認めた上で、犯罪という最悪の結果が起きた時に社会はどう振る舞うべきなのか。

そこから考えると、
被害者を最大限救済する。
犯罪の原因を減らす。
犯罪者には責任を取らせ、更生を求める。
共生できるなら社会に戻す。
共生できないなら隔離する。
苦しませることを目的にはしない。
そして社会が「この人間にはもう存在する価値がない」と判断するところまでは行かない。

そういう刑罰制度の方があるべき姿なのではないかと思います。