1. はじめに、「イロドリ」にすこしモヤっとした方へ。ソトとナカにある「好き」の在り方について。


ちょっと長くなってしまうのですが、多分、倉本さんのイロドリについての投稿をご覧になってモヤッとしてしまった方(つまるところ、私のプロフィール投稿を読んで「ぅえ!?キラキラした人来ちゃったじゃん…きっつ…」と思った方)もいるかなと思って、なんかすみません…という気持ちになり…、
ちょっと言い訳じみた投稿をさせて下さい。


私は結構「石」が好きで、街の中に「いい感じの石とか岩」があるお気に入りの場所や道があります。
敢えてそれがある道を通って家に帰ったりするのも好きです。。。笑

石や岩など自然物独特の模様や色・形を見ていると、どれも誰も「正解」とは言っていない姿かたちでも、こんなに素敵に見えるなんて!という「美」を感じる瞬間がありますよね。最近ショート動画でも絵の具混ぜたりしてるASMR動画をよく目にすることもあり「人間が作り出すものって、ある程度を超えると自然な模様とか在り方に還っていくのかな…」というか、世界を人間がコントロールすることの儚さみたいなものを感じます。
AIに画像を生成させた時に、絵柄が簡単に人間のコントロール外に飛び出してしまうのにも、何気にそんなニュアンスを感じている今日このごろです。
人間がコントロールできているものなんて、この世界のほんの小さな部分だけかもと。

そして、家でも↑のタイトルの画像のように、石から作ったものを集めたりしています。
これは古道具屋さんで1500円ぐらいで買った小物入れ?なんですが、こういう写真をちゃっぴー(ChatGPT)にいろいろ送って「何の石かわかる?」と聞くとアレコレ種類の特定やお手入れの仕方を答えてくれるので、めっちゃ助かっています。。。笑
これはオニキスだとかなんとか言っていた気がします。ありがとうちゃっぴー。

2. 「オタク」から「おしゃれ」へ──名前を変えていく“視線”


自分の部屋には、色々こういう物を集めてごそっとコレクション?(というほどのものでもないですが)しているんですが、ある時から「オタクだね〜」と言われる度合いから、「おしゃれだね〜」と言われることが増えてしまいました。
でもこれけっこうビジネスキラキラというか、女性でメディアにいて、メディア的に「適齢」だともう勝手にそうなっちゃうというか、メディアはそういうニューフェイスを探してきてどんどん文脈をつくってしまうんですよね。


自分としては子供の頃からわけもわからず、かといってやめられもせず…みたいな趣味を20年以上にわたり孤独に積んでいた中で(昔は人に「サブカルだね〜w大丈夫?」と言われて「冷笑してるけど、じゃああなたはAYUとGLAYとか、AKBとEXILEとかメインカルチャーの音楽以外は聴かないの?ていうか私と同じもの好きなのになんでそんなこと言うの?」とか、思う通りにまっすぐ言い返すと、ムッとされたり…笑 それが好きならそれでも全然いいのに)、ある時「石集めるのもある意味おしゃれだよね〜☝️」みたいな、「世の中に理解(わか)られる」みたいな瞬間が来てしまいました。

3. おしゃれの正体は、「居場所のなさ」の表現や境界線の1つなのかも


突然「おしゃれ」にされてしまって、岩の裏に潜んでた虫みたいな気持ちが突然白日のもとに晒されてしまってこっちは戸惑うし、その中で同じように楽しんでいた人からは疎まれたり…そういうのが重なると、いつの間にか存在自体が“陽の者”にされ「ハイハイおしゃれですね〜。けッ!」みたいな感じで「雰囲気で嫌がられる」こともすごく多くて、正直悲しいと思っています。

そこで、ここで私が声を大にして言いたいのは…
「おしゃれ媒体」「おしゃれ仕事」はマジでお金にならねーのよ!!
だからそんなに遠目に見ないでくれー!!
ということです!!笑

研ぎ澄まされたところで理解者は少ないし、「人と違う」ということはつまり「お客さんが少ない」ということです。笑
そんな茨の道を何故進みたいか?というと、正直全然進みたくないです。笑
暮らしが無難に楽になる方が嬉しいです。
とはいえ、とんがった方向にもっと振って「自分が何かを表現するクリエイターです!」と言ってもいいのかもわからない。

「自分」をうまく隠して仕事ができたならやっていたと思いますし、そうしたかった気持ちがあります…。でもそれでは本当にしんどくて、何もできなくて。
全然「選び取った」とかおしゃれではなく、「この人はここぐらいしか生息地がなかったんだな…」と思っていただければ嬉しいというか、その上で自分みたいな孤独な気持ちを持っている人が生きやすいようになればいいな、みたいな気持ちで、世の中に「余白」がある余地を考えたいと思って仕事をしている感じです。

これはおしゃれ?いや、私は人権とかバウンダリーとか、そういうもっと福祉みたいな、ちょっと余裕とは違う、切実な感じなんです。誰もが持つ痛みから来る揺れの見え方が、たまたま「世の中的にアリ」な方向に何度か行っちゃっただけで、なにも狙ったりしていなくて。
「ひととは違う」ということが、自分の中では誇りには思えなくて、どうしても違和感のままずっといる感じがあります。

4. 「東京」で保守でいるのはお金がかかる──変化と存在のコスト感覚


実際、東京出身・東京育ちだと「変化しない・保守的でいる」ということのほうがお金がかかるし、だけどうまく行けば「中央の上流」としてお金が儲かる仕組みにいられる。
つくづく、東京の保守とは、お金持ちのための世界だと思います。
私の東京出身の知人で、選挙の投票に行かない人はだいたいお金持ちの人です。もしくは、本当に政治に絶望している人です。(その両方を兼ねているパターンも多いかも)

前者は、ぶっちゃけ「社会福祉に頼る必要がないぐらいお金があるから自営業で社会保険を払わなくても老後にわたって快適に過ごせるので、敢えて赤字会計にして税金を抑えている人(だから東京には、経費で落とすための謎価格のレストランがいっぱい回ってるんだなと思いますし、潜在的に統計に出ていないだけで、東京に赤字会計にしているお金持ちはもっと沢山いる、という肌感です)」。
政治がぎゅんとひっくり返るより、安定してブレるぐらいの方が助かるんです。
後者はもう、純粋に「無力感でいっぱいの人」。
私自身は、どっちにもなれない、やや後者気味の人間だと思っています。

子供の頃は「自分にはこんな趣味やセンスしかない…みんなと同じものが好き、で止められない…」という劣等感でいっぱいだったのが、ここがいつも崖っぷちだと思ってもがいているうちに、いつの間にか時間が経つと「自分のオリジナリティ・らしさ」みたいなふうに捉えられて「そういう人」になってしまう。
知人でメディアにいる人に「なんか出て話してくれない?」と言われたら、その人のお役に立ちたいし、役目を果たしてしまう…みたいなことが連続して起きてしまって、すっかりおしゃれびとみたいになってしまったのですが、自分としてはあまり変わらないというか、世の中が変わっただけで、どこか孤独だった子供の頃のままのような気がしています。
上手く世の中と繋がれない、不器用な気持ちだけが残っているような感じです。

だから自分は東京の社会で、もちろん保守でも右翼でもなければ、逆に安定した左翼でもない「異端の者」として存在している認識なんですが、それゆえに社会に合わせて柔軟に変わり続けなければならない。
「みんなと同じ」という保守的な性質を味方につけられない以上、すごく毎日がサバイバルで、自分はいつ仕事がなくなって、家がなくなるかわからない、ぐらい張り詰めた気持ちで生きています。
しかし、メディアという「体制」になりがちな業界で無意識に仕事してきてしまったし、時には「アリな人」として押し出されることで、一定の人に言われるような「おしゃれな人」という「あっち側」みたいなイメージを持たれがちなんだと思います。

5. 音楽と出会い、ライターになるまで──別れの予感に抗う方法としての「仕事」


私がこういう仕事をするようになった理由をなるべく簡単に話すと、私は高校生の頃に本当に学校の「ふつう」に馴染めなくて。どうしても無理だと思って私は1年休んで高校を4年やっているんですが、その間に誰かと話がしたくて、子供の頃からやっていたHTMLで好きだった音楽のWebサイトを作ったら、それがマニアックなジャンルだったこともあって、ネットアイドルみたいに持ち上げられてしまったことがありました。
若い女とか、こういう音楽が好きという自分の「属性」でチヤホヤされても嬉しくないし、その中で距離感がおかしい人にストーカーをされて大変な思いをして汗が止まらなくなったり、陰口を言われたり、「ただ、いるだけなのになんでだろう…?」みたいなことが多く起こりました。

でもその中でも、いいこともあって。。。
私の文章を良いと言ってくれるミュージシャンの人(ギターをやるシンガーソングライター)に、その方のWebサイトで「僕と仲の良いミュージシャン同士の対談記事を作るので、その原稿を書いてみない?」と誘ってくださって、インタビューを書かせてもらったのがライターになるきっかけでした。

その方は多分私と20歳ぐらい離れていて、今大人になって、思えば、本当にずっといい音楽をやられていて。
「いつか自分が頑張って、その人とまたお仕事できるようになりたい」というのと、もう1つの別の友人とのエピソードが「大変なこともあったけど、ライターとして頑張ってみよう」と思うようになった10代の頃のきっかけだったんですが、この恩人のアーティストの方に5年ぐらい前に久々にお会いした際、「いや、実は実家の親の介護で長野に戻って、最近は声も出なくなって歌ってないんだよねw」と言われて。
「自分が『いつかは』と思っても、相手の事情でもう無理になることもあるんだ、自分はなんて甘かったんだ」と、現実にものすごいショックを受けたことがありました。

その方は2000年代にメジャーレーベルにいたんですが、そこがたまたま配信をやっていないレーベルで、未だに彼の作品はサブスクに乗っていないし、レコードにもなっていない。
CDも廃盤だから、彼が死んだらその音楽は「終わり」になってしまうんです。
そして彼自身も、原盤や著作権の契約をレーベルに一方的に有利な条件で結ばされて「知識のない自分も悪かったけど、それですっかり音楽業界が嫌になっちゃった」と言っていて、その晩はずっとそのことがショックで泣いてしまって。
「こんなに最近でも、どこにも残らない音楽がありえるんだ」というのが衝撃でした。こんなにいいものなのに。

どうしたらいいんだろう。。。自分の恩人に対して何もできないで終わるのかな。。。と考えたときに、当時は自分はあまり音楽の仕事に足を突っ込んでいなかったのですが、とにかくがむしゃらに、自分の目の前に来たものに対してとても真剣に考えるようになりました。
目の前のものについて、なにか「良くなる」アイデアを探すということについて、ものすごく突き詰めて考えるようになりました。そこから企画がたくさん出てくるようになって今に至ります。本当にサバイバルみたいな気持ちでしかわたってきていなくて、余裕とかは全くないでここまで来てしまったという気持ちです。

なので、色々仕事をやっている私の目下の夢は、その人に「音楽やっていてよかった」と思ってもらえるように、その人の音楽をまた胸を張って届けられるように、そのレーベルから出版権か原盤を買い取って自分の会社からリリースしたいということです。
(こんな言い方は何ですが)その人の目の黒いうちに、絶対にやらなければと思っています。
そのリミットがいつ来るかわからないけれど、気付いてしまった以上、やらなかったら後悔するということだけは確実だと思っていて…

やっていることが「おしゃれかどうか」は今はもう自分ではよくわからないというか、そういう社会からの箔付けは過去にされてしまったけど、今やりたいことはもっと泥臭くて地道なことだったり、というギャップがある気がしています。

だから、もしこのコミュニティに私が「違和感」として存在しているということは、ある意味それが正解というか…笑
とにかく、「おしゃれ」という概念にまとわりつく色んな感情をいろんな側面からほどいていって、きちんと「誰でも持っている違和感から発生した美意識である、それはすべて等しく尊いものだ」ということを証明したいのです。

その恩人がやっている音楽もオルタナティブなロック+ポップスで、でも昔のように「わかってる奴」だけが聴けばいいんじゃなくて、サブスクによって音楽が平等になった今こそいろんな層の人に届いてほしい。
そういう美意識の民主化というか、平等化をいろんな側面から同時に行っているという感じで仕事を展開しています。

6. 希望を毎日確かめるためにここにいる。揺らがない自分を作って、目の前のことに向き合い続ける。


しかし、目の前のものについて真剣に考えすぎるのは、良いことなのか?悪いことなのか?わかりません。
2年ほど前にひどく体を壊しましたし、「おしゃれ」に見えるからこそ、ギラギラしてしまった人にひどい裏切りに遭うことも多かったです。
あまり薦められることではないのかも…とも思っています。

だから自分が死ぬのか夢が達成されるのか、どっちが早いかは本当にわからないです。
でも、やらないで後悔することと、「あ、死んだけど去年ここまでやったしな〜」とスッキリすることだったら、後者を選ぶ方を取ってしまったというか。
※もちろん死なないで、やらないで世界に満足できたら是非そうしたいです!笑

このテキストで最初に書いた、石を見て思う「人間が作り出すものって、ある程度を超えると自然な模様とか在り方に還っていくのかな…」という気持ちは、音楽レーベルという「大きな流れ」の中では、その1人のアーティストは本当に小さな砂粒のような存在なのかもしれないという儚さと、「だけどそれはただの無機質なものじゃなくて、その人の何十年もの蓄積でできた“美しいもの”であるのは間違ってないよね?」という問いに実感を込めて何度も何度も手元で、この目で確認したいという気持ちが混ざっているんだと思います。
なにかの「別れの気配」に抗いたい。そう思っています。

だから、自分の住む世界のことには常に興味や好奇心を持っておきたいし、「この気持ちが希望というやつなのかも、それができればずっと続きますように、希望がつながっていきますように」と日々願わずにはいられないのです。
とっても不器用で、自分に対して「もっとビジネスに集中しろよ」とも思います。笑

そのような感じなので…、私は本当に、心から皆さんの世界を自分の世界のように大事にしたいと思っているただのいち人間なので、気さくに気軽に語りかけてくださったら、こんなに嬉しいことはありません。
改めて、どうぞよろしくお願いします。